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二俣 諏訪神社祭典

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本祭後​、神輿渡御を控え諏訪神社境内に並ぶ屋台

諏訪神社祭典

 諏訪神社の祭典は、古来、諏訪神社の例祭にあわせ、茶番狂言や祭典烟火が催され、その後、二俣川での舟屋台を経て、現在に繋がる「屋台まつり」に変遷されたと伝わっています。狂言については、文献(田光甚八守孝附込日記)に、元治元年(1864)9月の諏訪神社祭礼の記述として「二俣中町狂言始り」や「㡌山連稽古始メ」とあり、舟屋台については、二俣に残る旧家の言い伝えにより確認できます。

 今日に繋がる祭典は、古参三連(㡌山連、古城連、南𡾆連)により興ったと云われ、各町の祭典係が「連」と命名されることになりました。三連の命名者は、天竜市長を務めた本多直彦氏の四代前の先祖にあたる本多鞆夫によるものです。文献(田光甚八守孝附込日記)の元治元年9月9日の記述に「㡌山連」とあり、これが今のところ確認できる「連」名の初出となります。

 「屋台まつり」の始まりは、詳らかではないものの文献(田光甚八守孝附込日記)によると、慶応元年(1865)に「新町屋台横町土井迄来る」との記述が確認され、これが今のところ確認できる屋台についての初出とされます。つまり、少なくとも150年以上の歴史を有しています。

 「屋台まつり」は当初、古参三連(㡌山連、古城連、南𡾆連)により行われていたものが、遅くとも明治32年(1899)までには八ヶ連(㡌山連、古城連、南𡾆連、諏訪連、叉水連、二府連、西古連、吾妻連)の祭典同盟會(後の連合会)となります。その後、大正4年(1915)に旭連と白糸連が加わり、昭和になると戦後に笹若連、白山連、城下連、城南連の加入により14連による「屋台まつり」となります。昭和の終わりから平成にかけての人口減少や人手不足の煽りを受け、平成26年を最後に叉水連、令和5年を最後に笹若連が連合会を脱退したことにより、現在は12連による「屋台まつり」となりました。神輿に供奉する屋台の増減はあるものの、二俣の「屋台まつり」は、例大祭の神輿巡幸に屋台が供奉し巡行するため、例大祭と祭典が共存している「まつり」と云えます。

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​【公式】二俣 諏訪神社祭典 年番町サイト

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