

諏訪神社
二俣の諏訪神社については、その創祀こそ詳らかではありませんが、令和の今日に至るまで、字「町裏」に鎮座し、二俣の産土神としてあつく崇敬されています。言い伝えによると、二俣を襲った度重なる洪水で、諏訪神社の文書等が悉く紛失したと云われることから不明瞭な点が多いものの、今日も遺る絵図や修覆の棟札によって、その一端を窺い知ることができます。
社殿の創建時期は不明なものの、棟札により、少なくとも340余年前の延寶7年(1679)には社殿があり修覆されていることが確認できます。
また、「清瀧寺領絵図」により正徳2年(1712)には、現在地に諏訪神社(諏訪大明神)が描かれているので、少なくとも正徳2年以前に遡ることができます。
二俣の諏訪神社は、明治19年(1886)8月5日の「旧祭式再興願」によれば、古来より信濃國の諏訪神社(諏訪大社)に倣い、上と下の諏訪神社に諏訪大明神をお祀りしていたと云われています。これは、少なくとも遠江に於ける近隣の諏訪神社では見られない形ではあるものの、「二俣村絵図」寛延3年(1750)や「二俣村山東村絵図」宝暦3年(1753)には、上と下の産砂森(産土の杜)が描かれていることからも裏付けられます。
下諏訪神社(下諏訪大明神)は、明治8年の「合祀濟御届(明治7年1月1日合祀濟)」により、上諏訪神社(現在の諏訪神社)へ合祀されたものの、明治19年9月4日の「村社諏訪神社旅所設置御届」により、改めて例大祭の御旅所として設置され、今日、大明神(または下諏訪大明神)として二俣町民に親しまれています。

猿田彦命に導かれ、二俣町内を巡幸する神輿行列
例大祭
諏訪神社には一年に六つの例祭があり、そのうち8月22日の例祭が例大祭と云われています。
今日例大祭は、8月22日を含む金土日、もしくは、8月22日が金土日に含まれない場合は、その直前の金土日に斎行されますが、これは昭和40年代以降のことです。但し、正式には5月の第一回連合会によって日程が決定されます。
例大祭では、金曜日に諏訪神社で夕祭が斎行されます。翌土曜日には諏訪神社での本祭斎行後に、御神体を神輿に遷し奉り、諏訪神社を出御し、それに各連の屋台が供奉し、御幸所や明治7年に合祀されるまで下諏訪大明神がお鎮まりになっていた地である御旅所に御渡りをします。御旅所への渡御の道中、車道(くるまどう)の御幸所へお立ち寄りになり御旅所祭が斎行され、その後、二俣町内を巡幸した神輿は夜の帳が下りたあと、御旅所(下諏訪大明神)に着御され御駐泊なされます。翌日曜日には御旅所での御旅所祭が斎行されますが、御旅所での御旅所祭は、古くは新町(南𡾆連)が各連を招待して斎行していたことが「二俣町祭典係年番記録」により確認できます。その後、各連屋台に供奉された神輿は、諏訪神社へ還御し還御祭が斎行されます。
古来、神輿は上諏訪神社(現在の諏訪神社)と下諏訪神社(現在の御旅所)を巡幸(渡御と還御)していたと思われますが、「二俣町祭典係年番記録」によれば、各町を巡幸するようになるのは、明治43年(1910)からであると考えられます。その後、大正4年以降、諏訪神社祭典連合会への加入が増える毎に巡幸する範囲が広がり、昭和30年に諏訪神社祭典連合会が14連になることで、現在その道のりは、おおよそ7キロメートルに及んでいます。
明治19年(1886)に出された「旧祭式再興願」では、上諏訪から下諏訪への神輿渡御の始まりを「天和ノ初年」としていますが、諏訪神社修覆の棟札や絵図などから、特定こそできませんが、それに近い時期には神輿渡御が行われていたことが推測されます。つまり、少なくとも300年を超える歴史が紡がれていると考えられます。


二俣町内を巡幸し、諏訪神社へ還御する神輿

